2002年5月5日日曜日

受験戦争が構造改革を阻む?





2002.5.5
今日はこどもの日。粽を食べて菖蒲湯だったかしら。あまり昔のことだから忘れてしまった。でもこどもの日ということで、教育について考えてみたい。このホームページの付属掲示板で教育問題が話題になって、とても楽しいおしゃべりだったんだけど(掲示板もときどきのぞいてくださいね)、そのなかでちょっと気になったことがあった。日本の教育システムが日本の構造改革を阻んでいるんじゃないかと思いついたわけ。もし本当だったら、これは深刻だね。一つの仮説だけれど、聞いてくれますか。

まず、今の受験中心の教育システムだけれど、その評価については議論が分かれるね。詰め込み教育こそ問題だから、もっとゆとりを持たせたカリキュラムにするべきだとする意見がある中で、それに反対する意見もあります。散人はどちらかというと現在の中等教育というのは相当いい線をいっていると思っている。若いうちは「ゆとり」なんって言わさずにがんがん詰め込みをするべきだよね。だって知識がないと考えることすらできないもん。考える力を付けさせる意味でも知識の詰め込み教育は意味がある。子供が「ゆとり」なんて言うのは10年早い。そう信じていたんだけれど、詰め込み式受験勉強もちょっと問題かなあといま考え直しはじめている。これは教育それ自体の問題と言うより、この教育(受験)システムがもたらす日本の経済社会への影響についてなの。

ご承知の通り、現在の受験戦争は相当激しいね。親も大変みたいだけれど、子供はもっと大変。かなりハードな勉強を相当期間続けなければ「いい大学」に入れない(らしい)。子供は遊びたい盛りだから、ふつうの場合、勉強はいやがる。それを親(特に母親)が無理矢理勉強させる。それ自体は大変結構なんだけれど、馬にニンジンのたとえじゃないけれど、子供にニンジンを見せびらかして勉強させるみたい。飴と鞭かな。「勉強しないとお父さんみたいにいつまでたってもうだつが上がらないよ」とかいうらしいから。それは致し方がないところもあるから、父親としては甘んじて許容するにしても、問題はニンジン(飴)の方ね。子供が「いい大学」にさえ潜り込むことができれば一生いい暮らしができる、今だけの辛抱よと教え込んで、子供がまたそれを信じてしまうらしい。

実際はそういうことはないんだけれど、そういう競争に一応勝ち抜いてきた日本社会のいわゆる中堅層(サラリーマンやお役人)は、あれだけしんどい受験戦争を勝ち抜いたんだからそれなりの「見返り」が生涯にわたって保証されて当然と考えるようになるみたい。その「見返り」というのが現行システムで享受できるいろんなフリンジベネフィットだと言うことであるからして、現行システムが変わってしまうと困ったことになる。「話が違う」という事態はどうしても避けなければならない。だからいかなる改革にも抵抗するものすごい保守的でマッシブな階層が大企業のサラリーマンを中心に形成されていくことになる。これはきっと受験指向の現在の教育システムのもたらす一番ネガティブな結果だと思う。

企業にはびこる体育会系のメンタリティーが、この「みんなの利益を守るために仲良く一緒にがんばろう」の動きをさらに強固なものとする。企業経営は当然「従業員第一主義」となりガバナンスが利かなくなる。諸悪の根元だな。

日本の中等教育制度は確かに世界に誇れるものがある。でもそれは所詮中等教育でそれ以上のものじゃない。一番の問題は、その子供のゲームのような中等教育での勝者に人生の特急券を渡す(と見なされている)現行の受験選抜制度。その意味で今般の中教審が発表した中間報告で、専門職養成のための文科系の大学院教育の充実を訴えたのは、ちょっと遅かったけれども、非常によかった。人生の特急切符というものがもしあるなら、それは子供にではなく大人になってから与えるべきで、その数ももっと少なくすべきだろう。大学生も大学院にはいるために勉強するようになるし、へんな選民意識もなくなるはず。

でもこういうことに真っ先に反対するのが、すでにシステムに潜り込んでいるいわゆる「エリート」たちなんだなあ。自分の立場がなくなると思うらしい。あなたもそうですか? やはり受験戦争が保守的な大量の「エリート」を作り出すという散人の仮説は当たっているみたい。

2002年4月5日金曜日

〔再録〕fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』 についてなどなど

2002.4.5
fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』
についてなどなど。新たな発見がいくつもありました。
永井荷風
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) 永井荷風
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Sat, 29 Sep 2001 23:03:54 +0900
記事ID(Message-ID)
所属(Organization) Tokyo Metallic Communications Corp. -----------------------------------------------------------------------
<japan.life.seniorに書いたものだけど、こちらの方が適当なようなので>
吾輩が隠棲する余丁町というところは、新宿の街外れにしては開発が遅れた、やや雑
然とした街で、別段とり立てて自慢するほどのものはなにもないのですが、敢えてひ
とつだけあげるとすれば、この街にふたりの明治の文人が住んだことでしょうか。坪
内逍遙と永井荷風がそうです。
このうち坪内逍遙宅跡についてはすっと前から東京都教育委員会による看板表示があ
るのですが、荷風については長らく無視されており、その旧居跡を示す表示は余丁町
のどこにもありませんでした。ところが先週ようやく「永井荷風旧居跡」との立て札
が余丁町通りに建てられたのです。逍遙に遅れること実に十数年。でも熱狂的「荷風
ファン」を自認する吾輩にとってはまことに喜ばしいことで皆様にご報告したいと思
います。(教育委員会のえらい人は荷風なんて嫌いだったのでしょうね。「教育的で
はない」ということかな)
荷風が好きな人は、ほとんど例外なく年輩者。しかも男性と言われています。吾輩も
それを信じていたのですが、この前荷風について詳しい川本三郎の講演を聴きに行っ
たとき、聴衆に若い女性が結構多かったのには驚きました。最近荷風を見直す傾向が
顕著になっていますが、年輩者ばかりでなく若い女性にも理解されるようになってい
るらしい。まさに「後生畏るべし」ですね。(もっとも、日本近代文学の三本の柱は、
鴎外、漱石、それに「荷風」であると喝破した赤瀬雅子という比較文学の先生は女性
です。何事にも例外はあります)
でも、若い女性に理解者が広がったとしてもシニア世代にとっての荷風の魅力が減る
ものではありません。今度岩波から荷風の日記『断腸亭日乗』が改めて発刊されるの
も隠然たるファンが多いことを物語っています。ともあれ、徒然なるままに荷風散人
の文章にひねもす陶然と酔いしれるのは、吾輩の至福の暇つぶしであり、生活そのも
のとなっているのです。
すこし荷風について話しませんか。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年4月4日木曜日

〔再録〕ニュースグループ(fj.books) における楽しい談話  (荷風について、浅草について、岡山について etc.etc)

20024.4
Re: ふらんす物語
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) Re: ふらんす物語
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Tue, 20 Nov 2001 11:15:01 +0900
記事ID(Message-ID)
ようこそ!naoyukiさん!
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 Wataru Mizutani at mizutani@jrcat.or.jp wrote on 2001.11.18 10:19 AM:
>
>> 荷風は『フランス物語』を読んで感傷的すぎて「ひとり旅」を除けば
>> うんざりだったのすが、
『すらんす物語』の話が出たので、ひとつだけ。
ひとつだけといいましたが、もうひとつふたつ。
田辺聖子は荷風が大嫌いで、荷風の文章の中での女性蔑視(?)の言葉には「驚倒」
すると書いているのですが、彼女はそれでも『ふらんす物語』のなかの「祭りの夜が
たり」は楽しかったといっています。南仏のアビニオンで旅行者が女にスッテンテン
にされるお話ですが「恐ろしいのは南国の女だ」と荷風はすっかり恐れ入っています。
この辺が彼女のフェミニストとしての復讐心を満足させたようです。
「ひとり旅」は少々理屈っぽいところもありますが良いですね。最後に伯爵が「宮坂
のような変わった男、思想の病人が出てきたのは、すなわち日本の社会が進歩した複
雑になった証拠ぢゃないか。私は喜ばしいことだと思ふ」といってお終いになります
が、現在の日本はどうなんでしょうね。まだまだ「変人」の数が少ないようにも見え
ますが・・・。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年3月23日土曜日

クアハウスは楽しい



石和温泉に行ってきました
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余丁町散人

年一回の人間ドック、今年は山梨県の石和温泉病院に出かけました。今まではずっと都内の病院での一日コースで能率的に済ませていたのですが、いまや時間がたっぷりある隠居の身、ちょっと遠いのが気になりましたが、せっかくだから温泉にでも入りながらのんびりと健康診断を受けようかと考えたもの。結果として大正解でした。

クアハウスは楽しい

富士山も綺麗に見えた

併設のクアハウスはとても快適で楽しめましたし、受診者本位のゆったりとした検診方式もなかなか良いものでした(都内の病院では受診者が自分でいろいろの診察室を巡回する方式をとっていますが、ここでは受診者は座ったまま待っておれば看護婦が来て案内してくれます。とてもいい気分)。ただ食事の量の多さにはちょっと閉口しました。「温泉病院」たる所以なのでしょうが、おかげで当分節食を続けなければならなくなりました。

帰りは時間があったので、河口湖、山中湖経由、一般道を通って帰りました。市街地を離れると日本の自然は十分残されており、咲き始めた花木が混じる山の緑は美しく、所々に散在する山の集落の風景も一つ一つちがった趣があり、とてもいいドライブでした。

でも東京に近づくと交通量が増え、街の風景も暑苦しくなってきます。一番渋滞したのはいわゆる郊外の住宅地といわれるところ。みんな車で移動するからでしょうか、極端に渋滞していました。

わが家に帰り着いたのは夕刻。昨日吹いた春一番のおかげで先週満開になったばかりのハナモモは相当花を散らしておりましたが、幸い遅咲きのハナモモ(白色)は影響を受けずにおり、満開の姿で我々を待ってくれていました。猫もいるし、やっぱりわが家は落ち着きます。

つらつら思うに
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道中つらつら考えることがありました。一つには、日本の宿泊施設での食事の量の多さについて。いまや多くの客は「泊まる」為に旅館ホテルを利用します。でもいまだに日本の旅館では食事にこだわりすぎているような気がします。この十年で旅館の売上は4割減との統計もありますが、ニーズの変化を読み間違っておれば当然のことでしょう。

もう一つ考えたことは、日本の自然の素晴らしさにあまりにも対照的な市街地の景観についてです。広告、電柱が無秩序に立ち並び、はっきりいって醜い。日本もやることがいっぱいある。富士山の自然が美しかっただけに尚一層この思いを強くいたしました。

ちょっと「隠居の小言」みたいな近況報告となりました。

2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん

2002年3月17日日曜日

「視点コラム」の再開(あわせて「猫に小判」考)

2002.3.17


退職して一年になる。ちょっと昔が懐かしい感じもしないではない。一番残
念なことは在職当時に毎月書いていた「視点」というコラムが書けなくなっ
たことだろう。今般、散人のホームページの中に過去の視点コラムを収録す
る作業を行ったが、昔の自分の文章を読み返して無性に懐かしくなった。や
はり無い知恵を絞って、考え考えして書いたものだけに、愛着がある。さら
に歴史記録という面もあり、今読み直してもそれなりに興味深かった。とい
うことで、基本的には自分のためにではあるが、考えること書くことを続け
てみようと考えた。あと十年生きれば、その時にもう一度読み直して見よう。
その時、昔の自分の馬鹿さ加減を嗤えるぐらいに、知的に成長を続けること
が出来ればいいなと思う。

再開第一回目のタイトルに、「猫に小判」と書いた。隠居の身であるから少
々ふざけても怒られることはない。散人は猫が好きで人生のほとんどを猫と
生活したためか、猫にかなり影響を受けた。前生は猫ではなかったかと思う
ときもあるくらいだ。よって猫の考えていることは相当理解できるつもりだ
が、それでもよく分からないときがある。いわんや普通の人には理解できな
い。だから猫はなにも考えていない動物だと思われ、ハウツー本には「ネコ
にも出来る・・・」とかのタイトルが付く。たいへん猫に対して失礼だ。
最たるものは「猫に小判」ということわざだろう。ものの価値が分からない
人には値打ちのあるものを与えても無駄との意味に使われる。ネコは馬鹿だ
ねえ、「かつお節」をやれば喜ぶが、もっと価値がある小判は値打ちが分か
らないのでそっぽを向く、というのだ。

でも本当にそうだろうか。小判は確かにお金としての価値があるのだけど、
使用価値がある財サービスと交換できることではじめて値打ちがあるわけで、
小判も「かつお節」と交換してはじめてメリットが出てくるということが大
切。でも時として人間はそれを忘れ、小判自体を保有したいと並外れた情熱
を注ぐことがある。でもみんながそれをやり出すと不況になる。猫の方が頭
がいい。
現在の日本の不況でも同じ現象が見られる。不況がデフレを加速させ、貨幣
を保有しているだけで貨幣の実質価値が増加する時代だ。そういう状況では
誰もお金を使おうとは思わない。人々は投資したり消費したりして自分の保
有する貨幣を現実の価値「かつお節」に代えることに消極的になり貨幣のま
まで保有しようとする。それが更に不況を悪化させる。

こういう状況に対する処方箋をいち早く提起したのがケインズであった。ケ
インズは『一般理論』において「人々がみんな月をほしがり、月が一つしか
ない場合、人々は失業する。そういう場合は月の代わりにまるいチーズを大
量生産して人々に(月だといって)与えるしかない。中央銀行が文句を言え
ば国有化するのだ」と書いた。もちろんケインズの言う「月」とはお金のこ
と「まるいチーズ」とは増刷された紙幣のことである。ケインズが「流動性
の罠」と呼んだ状況に置いては、今も昔もインフレ政策でしか不況からの脱
出は出来ないのである。数十年前から指摘されていることで、それ程難しい
理屈ではない。

日銀の量的緩和の是非をめぐる議論がこの二三年続いていたが、ようやく日
銀は昨年の春より金融緩和の方向に舵を切った。量的緩和をはじめているの
である。一大決断であった。いまだに「インフレターゲット論の是非」につ
いて議論をする人を見かけるが、いささか過去の議論である。いまや大勢は
決しているのだ。実体経済に影響を及ぼすまでには時間がかかろうが、日本
はゆっくりと量的緩和による不況脱出の方向に進みつつある。これを間違え
てはならない。その認識のもとに、量的緩和に伴い不可避的に起こるインフ
レと円安への対応を、今から準備しておく時期に来ているのである。

最後に近況報告。隠居生活の自由気ままさはとてもいいものです。ときには
気の毒がられることもありますが、そういう人にはこのありがたみは「猫に
小判」なのでしょうね。

余丁町散人(橋本尚幸)

2002年3月9日土曜日

〔再録〕荷風はどこで幸徳秋水の囚人馬車を目撃したのか?


「荷風塾」学校通信
School News
2002.03.09学校通信  No.3
荷風はどこで秋水を見たのか
     余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。

前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。

「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」

これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。


囚人馬車と荷風の通勤経路
  市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。

まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。

つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。

荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。

ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。
再び荷風の文章に戻って
 市ヶ谷本村町に立ちこめる地霊
ここで荷風の文章をもう一度読むことにしました。荷風は「日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た」と書いていることが重要であると思います。靖国通り(市ヶ谷の通り)上で馬車が「日比谷の裁判所の方に」行ったと表現できる場所といえば、どうしても本村町の交差点一カ所ということになるからです。荷風は通りを市ヶ谷見附の方角に歩いていた。馬車は荷風を追い越して、本村町を右折し日比谷の方角に向かって坂を上って行った、ということになるのです。

荷風がこの重要な「思案」をしたという本村町は、もと尾張藩の上屋敷でした。その後、陸軍士官学校となり、陸軍参謀部がおかれ、現在は防衛庁の新庁舎がそびえています。極東軍事裁判もここでやりました。三島由紀夫の自決場所としても有名です。なにか恐ろしい地霊がこの付近に立ちこめているような気がいたします。

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左の写真は靖国通り本村町丁字路を四谷見附側から見たところ。荷風と囚人馬車は左からやって来た。正面は防衛庁の新庁舎。
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このたび川本三郎の『荷風好日』が発売されました。同氏がこれまで雑誌などに発表されたエッセーをまとめたものですが、なかなか楽しめます。散人のコメントを掲示板に載せました。下のリンクです。

川本三郎『荷風好日

2002年3月2日土曜日

余丁町便り (No.004)


余丁町便り (No.004)
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余丁町散人

いよいよ春ですね。カブリオーレの季節です。車の幌を全開にしてドライブしました。風が暖かく、とても気持ちが良かったです。

北の丸公園を久しぶりに訪れました。マンサクと寒緋桜がとてもきれいに咲いていました。ハクモクレンの蕾はかなり大きくなっていましたから、もう一週間ぐらいで咲くのではないでしょうか。コブシの蕾はまだ小さく、咲くにはもう少し時間が掛かるみたいです。寒桜はもう葉をつけて葉桜になっていました。

わが家の紅梅は先週みごとに花を咲かせましたが、もうかなり散りかけています。ヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラがかわるがわるやってきて、梅の花を食べるから。

この季節はほとんど毎日花の様相などの景色が変わります。駆け足で春がやってくるのですね。


北の丸公園のマンサク

HPに視点コラムを

住友商事勤務時代に冊子「経済動向」に毎月連載していた「視点」というコラムのバックナンバーをHPに掲載しました。もう既に昔の話であり、あまり参考にはならないと思いますが、散人にとってはとても懐かしく、今回の収録に当たりコラムごとに読み返してみて感想やコメントを追記いたしました。当時はそれなりに一生懸命考えて書いたもので、いま読み返してみると恥ずかしくなるようなものもありますが、その時々の雰囲気を残しているものも多くあり、原文には手を加えず収録いたしました。自分史的な様相を呈しておりますが、ご笑覧いただければ幸いです。
なお、視点の古い分(96年から98年まで)についてはアップルの iTool ではなく自分でHTMLで別のサイトを作りました。テキストばかりのページですが、ちゃんと目次と本文のリンクが動きます。それをメーンサイトとリンクさせました。不細工なものですが、全部自家製です。何かプラモデルを作った子供のように喜んでおります。

神保町めぐり
***

北の丸公園に駐車してから神保町に行きました。東京堂書店で出たばっかりの川本三郎の『荷風好日』を購入。昨日までは平積みにしてあったのがきょうはもう一冊しか残っていないとのことで、最後の一冊を手に入れることが出来ました。荷風の人気恐るべしです。

同じ東京堂書店で坪内祐三と紀田順一郎のサイン本が置いてあり、ちょうど買いたかった本でもあり即購入。最近はアマゾンのオンライン書店で本を買うことが増えていますが、このようなサイン本などが買えるのはやはり神保町ならではです。

そのあとスヰートポーヅで餃子を食べました。この店、すずらん通りにありますが、戦前満州帰りの人が東京で開いた餃子店です(下の写真)。本場の大連で修行を積んだだけあって、なかなか美味しいとの評判。こんなお店が残っているのも神保町の良いところかも知れません。

再開発で神保町も町並みは大きく変わりつつありますが、たまに来るのもいいもんです。


2002年2月17日日曜日

余丁町便り(No.003)



余丁町便り(No.003)
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余丁町散人

わが家の遅咲きの紅梅がようやく少しずつ花を開かせはじめました。まだ満開にはほど遠い状況ですが、春を感じさせます。写真を入れておきます(クリックすると画像が大きくなりますよ)。

このウメはかなり歳をとった樹で、ムシなんかがついて、いろいろたいへんでした。そのへんの苦労を Gardening のページに書いておきました。ご笑覧ください。

わが家のウメ

HPの作業状況

一月から作成に取り掛かっているホームページも、だんだん形をなして参りました。最初はホームページ作成専用ソフトを使用して悪戦苦闘していたものですが、あまりに複雑でそうそうに諦め、アップル社のサイトで提供されている簡易ツールを使うことにしました。すると、とたんに作業がはかどり、いま何とか形を整えつつあります。

家内の家族がフランスからアクセスしてくれましたが、当然ながら日本語表示が読みとれないと言うので、英語版のサイトメニューも付け加えました。ヘッダーの一番最後のボタン(ENGLISH) で英語表示に変わります。
去年から散人は、Net News という電子会議システムに参加するようになっています。なかなか興味深いものです。NetNews Articles というボタンを押していただくと散人の投稿状況が分かります。ジャンルは政治経済から、グルメまでいろいろです。お覗きください。


「荷風塾」
***
世話人:散人
「荷風塾」というのをこのホームページに作りました。詳しくは「荷風塾」というボタンを押して「荷風塾 学校通信」というレターをお読みください。散人は本当に荷風が大好きなのです。荷風のことを話し出すと何時間も続いてしまします。そんな荷風に対する思い入れをこの「学校通信」でお伝えしたいと思います。これを肴に、更なる荷風談義を、ホームページ付属の掲示板で続けようとの魂胆です。

掲示板に書き込みをしてくださる方も、ぼつぼつ増えてきました。ありがとうございます。ホームページをご覧になられたら、ついでに掲示板に一言お書きいただけると、とてもうれしく思います。




2002年2月16日土曜日

〔再掲〕わたしの阪神大震災

わたしの阪神大震災〔再録〕

六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。

それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。

この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。

日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。

阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。

(橋本尚幸)

2002年2月13日水曜日

〔再録〕なぜいま荷風なのか? 高齢化社会と荷風


「荷風塾」学校通信
School News
2002.2.13創刊号      世話人/発行人 余丁町散人
「荷風塾」を開きました。
       余丁町散人
われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。

宜しくご贔屓の程お願いいたします。

なぜいま荷風なのか?
       高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
荷風旧居(断腸亭)跡
     新宿区余丁町
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

(下にいくつかの荷風と余丁町に関するリンクを付けました。「荷風のいた風景」とは松本哉の文章です。なおロゴと写真はクリックすると拡大画像が見られます)

断腸亭日乗(摘録)牛込抜弁天郵便局「荷風のいた風景」

〔再録〕永井荷風と余丁町

創刊号 2002.2.13     世話人/発行人 余丁町散人

われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。宜しくご贔屓の程お願いいたします。

高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

2002年2月9日土曜日

余丁町便り (No. 002) 2002.2.9



余丁町便り (No. 002)
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余丁町散人

このところ暖かい日が続いて、庭のツツジが季節を間違えたのか、一つだけですが小さな花を咲かせました。昨年秋に水を切らせてほとんど枯れさせてしまったものですが、その後いろんな人のアドバイスにしたがって手入れをしていたところ、何とか狂い咲きをするぐらいにまで元気になりました。写真を写真ページに入れておきましたのでご覧ください。

ところで、やっとデジカメを買いました。いままで何となく買う気になれなかったものですが、ホームページに写真がないとやっぱり淋しいと思って、散人の誕生日(1月31日)を機会に買ったもの。なかなか良いものですね。もっと前に買って居ればよかった。


掲示板を開設

ホームページに来られる方と自由な意見交換が出来るのも良いなと思って、掲示板を作りました。なまえは「余丁町散人の隠居小屋」と言います。したにリンクを表示してありますのでクリックしていただくと来ることが出来ます。掲示板とはボレティン・ボード・システム(BBS)といって、ネット上に作られた複数の人たちが意見交換したりお話をしたりする場所のことです。難しい規則なぞ何もありませんので、気軽にお越しください。匿名で書いていただいても一向に構いません。

今のところ、散人が主に書いておりますが、それでも二三の方には書き込みを始めていただいています。どうぞお気軽にご参加をお願いいたします。自由にスレッドの設定(話題の提起)が可能ですし、話題もまったく自由です。
昨日、出席したセミナー「ダイワのスペシャルトーク」で若林栄四氏のお話がとても印象的で裨益するところ多大と思いましたので掲示板にもポイントを載せておきました。読まれて損はないと思います。

女房どのとピカチュウ
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女房どのの受勲に関して多くの方からお祝いのメッセージを頂き有り難うございました。女房どのも喜んでおります。あれ以降いろいろの公式行事などが続き、散人が一人でお留守番をするというのが多いのですが、おかげでホームページの製作作業もぼちぼち進んでおります。このアップル社のサイトで、全くの素人でもなんとか web ページが作れてしまう(おまけに美しい雛形が揃っているのできれいなものが出来る)というのは本当にすごいことです。やっぱりアップルは偉いのです。

うちの猫(ピカチュウ)もページに写真を載せたおかげで、多くの方から「でっかい猫だ」とのご感想をお寄せいただき恐縮です。すっかり有名になって本人(?)は得意気であります。

この次は愚息のことも紹介出来るように、次に家に来たときに彼の写真を撮るように致します。

2002年1月30日水曜日

Annie's Honor

〔旧HP閉鎖に伴い要保存コンテンツをここに転載〕

Annie Vercoutter 国家功労勲章シュヴァリエ叙勲式大使の挨拶 (2002.1.23)
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1.フランス共和国上院議長、上院議員の皆様、そしてご出席の皆様,この度のクリスチャン・ポンスレ フランス共和国上院議長ご一行の来日は大変光栄なことであり、お越しくださいましたことに対し、ここにおります全員を代表して厚く御礼申し上げます。そして本日、ヴェルクテール=橋本様の日仏関係への高いご貢献に対し、フランス共和国大統領並びにフランス政府から国家功労勲章シュヴァリエ 叙勲式を挙行できますことは、私の大きな喜びと致すところでございます。 お二人に栄誉ある勲章を授けられますことは、日本におけるフランス人社会の活力、質の高さ、多様性、そして日本への密着度を物語るだけでなく、そこに一貫性があることをも示しています。お二人とも、それぞれの分野に置いて、フランス人社会の利益を守るために努力されているという、共通点があるのです。 本日お二人の受賞者のためにお集まりくださいました、ゲストの皆様方にも敬意を表したく存じます。

 2.ヴェルクテール=橋本様、在日日仏家族の会 会長であられる貴女は、お父様が高名のエジプト学者でいらっしゃいました。そしてお若い頃からアジアに興味を持ち、中国語と日本語を熱心に勉強され、この道の専門家として広く認められるに至りました。 1965年から73年まで、パリの高等中国学院、そして高等教育実務学院で図書館司書をつとめられました。 研究と教育への関心は深く、1984年から98年まで、諸外国で日本政府が発行している冊子「Cahier du Japon」と緊密な協力関係を構築されました。日仏会館発行の雑誌「Ebisu」の編集委員会のメンバーでもあり、また、在日フランス商工会議所発行の雑誌「France Japan Echo」にも定期的に記事を執筆なさっています。東京のパリ高等経済学院でも5年間にわたり、日本文明についての講義を担当なさいました。 教育にも情熱を注いで居られます。日本滞在中のみならず、中南米のメキシコ、カラカス、ブエノスアイレスにご滞在中も、日仏学院やアリアンス・フランセーズで、教鞭をとられました。日本では、若い外交官がフランス語とフランスのより良い理解のために研修をする機関である外務省外国語研修所、そして一橋大学でも、講師としてフランス語の普及に尽力されました。 さらには、教育者としての経験に根差し、日本の教育制度をフランスに分かりやすく紹介されました。中でも、フランス大学図書出版の「今日の教育」シリーズの一冊として1997年に発行された「日本の学校で」という著作は、今までほぼ未開拓であったこの分野での必読書となりました。 私は着任以来ずっと、貴女の、ご自身の信条を貫き、日仏間の対話に前向きな姿勢を高く評価しています。貴女は常に、在日フランス人に日本をよりよく理解してもらおうと心を配り、特に日仏家族を気遣われています。貴女の長年の活動はこうした考えに根付いているのです。 

3.貴女は、在日日仏家族の会 会長として、日仏両国民の効果的な親交を図るべく、出会いの場を作り、交流を促しました。そして、最初はとてもかけ離れているようにみえるけれども実はフランスとの共通点も多くある日本文化を、大人にも子供にも理解させ、日常生活に困らないようにしました。 貴女はまた、日仏家族が抱える問題、たとえば二つの母国語、教育、個人としての権利の問題などについての話し合いの場を定期的に提供しています。こうして、日本における最初の「FLAN-母国語としてのフランス語」計画を打ち出しました。このプロジェクトは、外国におけるフランス語教育庁が特別の関心を払ってその行く末を見守っています。 ヴェルクテール=橋本様、数多くお持ちの才能を存分に発揮され、両国民の相互理解の促進に寄与されました貴女は、その活動のゆえに、そして日本におけるフランスの存在にとって、貴重なお方でいらっしゃいます。 ですからこそ、フランス共和国大統領の名に於いて、そして私どもに与えられた権限により、貴女を国家功労勲章シュヴァリエと致します。

〔翻訳、在日フランス大使館)

冬のお便り 2002.1.30



冬のお便り 2002.1.30
                 ..................
余丁町散人

すっかり寒くなって来ました。我が家の庭にはちょうど水仙が咲き始めました。昨年球根を埋め戻したものですが、効果があったようでとてもきれいです。

庭のウメとハナモモが小さな芽を着けています。寒さの盛りですが、春遠からずというところでしょうか。

猫の散歩

うちの猫(ピカチュウ)にハーネスを付けて散歩させています。まだまだ慣れないので、まず庭の中を動き回らせています。だんだん上手になってきました。そのうち外にも連れ出します。
一昨年の10月に公園に捨てられていた子猫ですが、知人(カトリーヌ)が通りかかると足にしがみついてよじ登り始めたそうです。とても生きようとする意志が感じられ、カトリーヌはどうしても置き去りにすることが出来なかったそうです。いろいろあって散人宅で引き取ることになりました。立派な雄猫に成長。体重は5.4キロになりました。
ホームページを作ってみようと勉強を始めました。まず手始めにこのマックのサイトで試してみようと思います。徐々に手を入れていきます。

結構楽しいものですね。

デジタルカメラも買わなくっちゃ。

女房どのの受勲
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Annie Vercoutter

わが女房どの は今般、フランス政府から国家功労賞(オルドゥル・ナシオナール・ドゥ・メリット)を頂きました。長年にわたる日本研究、著書の『日本の学校にて』、及び日仏家族の会会長としての貢献が評価されたものであり、大変名誉に思っています。散人も「内助の功」が認められたことで、嬉しく思います。

叙勲式におけるフランス大使のスピーチは、女房どのの人生を簡潔に言い表していると思いますので、次のページに載せておきました。

2001年12月1日土曜日

いわゆる「体育会」的なもの

「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿


いわゆる「体育会」的なもの


たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。

ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。

それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。

卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。

ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。

日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。

「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。

橋本尚幸(S43卒、スナイプ)





2001年3月1日木曜日

私の羽根飾(こころいき)

この3月末で、33年間にわたる会社生活を終え、少し早いが引退生活に入ることとなった。5年間書き続けたこのコラムも、これが最後となる。これを機会に、価値観という観点から日本の問題を考えてみたい。

会社生活をはじめた頃は、高度成長期のさなかだった。当時の日本は、まだまだ貧しく、世をあげて経済成長が指向されていた。三分の一世紀が経って、日本の一人あたりGDPはすでに米国の水準に肩を並べ、数字の上では豊かな国となった。しかし国民は豊かさを実感できず、逆に国全体に、伝染病のように重苦しい閉塞感が広がっている。

そもそも物質的な富の増大とは、国民幸福の実現のための手段であったはずだが、その手段がいつの間にか目的と化してしまい、実現される名目上の富を真の豊かさに転化する戦略が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、忘れ去られていたように思える。

この10年進められてきた構造改革にしても、本来は国民の豊かさを実現する手段であったはずだが、構造改革を進めた90年代に国民は1200兆円の資産を失うことになる。日本の年間自殺者数は3万人を越え(1999年)、そのうち30%(9000人)は、経済的理由によるものと云われる。ベトナム戦争の時でさえ、米軍の戦死者は年間平均で5000人程度であった。国民の豊かさを求めて皆がこぞって進めてきた改革が、皮肉にも国民の生命財産に多大の犠牲を強いている。ここにも目的と手段の関係に歪みが見える。

その結果、社会の価値観に揺らぎが生じはじめている。「みんな一緒に、仲良く、一生懸命」という古い共同体の価値観は徐々に力を失い、そうかといって、それに替わる新しい価値観は、まだ社会に定着していない。集団の迷走を押しとどめ、社会にバランスをもたらすのは、結局、意見を持つ個人の存在でしかない以上、一刻も早く健全な個人主義が、日本社会に根付かなければならない。

しかし残念なことに、日本には「個」が育ってこなかった。日本文化に「個」がなかったわけではないが、西欧文明における「個」とは、社会を構成する最小限の核として積極的な意味合いを持つのに対し、日本文化における「個」は、西行、山頭火などのように、社会に背を向けた漂泊の詩人というポーズを取ることが多い。特に人が共同体のありように幻滅を感じたときに、日本人はこの消極的な「個」に逃避する傾向がある。

「個」の在り方を考える上で参考となる例として、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を引用したい。最後まで権威に迎合することなく、貧窮の中で最期を迎えたシラノは、(自分の地位財産は奪えても、決して自分から奪えないものがある。それは)「私の羽根飾(こころいき)だ」と叫ぶ(辰野隆、鈴木信太郎訳)。羽根飾とは彼の尊厳の象徴だった。個人主義の国フランスでは、シラノが今なお最も好まれる人物像となっている。結局、「個」が生きる社会とは、他から与えられるものではなく、各人が自分の尊厳(ディグニティー)を守る努力をすることで実現するものだと思う。

小生も最後に「私の羽根飾(こころいき)」と云って筆をおくこととする。さようなら。

(橋本尚幸)

2001年2月1日木曜日

「徳政令」の亡霊に怯える現代日本

今年のNHK 大河ドラマ「北条時宗」は、なかなか快調な滑り出しだ。秩序を重んじ公儀に生きるという、伝統的な侍のイメージとは大きく異なる、どぎついまでに個性的で荒々しい武士がたくさん登場するのが面白い。舞台の鎌倉時代は、いろいろな意味で日本の源流を形づくった時代だが、我々の祖先はもともとこういう人たちであったのだと思うと、なにやら元気が出てくる。

経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。

一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。

たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。

記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。

今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。

でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。

資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。

(橋本尚幸)

2001年1月1日月曜日

インデックス型投資信託と総合商社

2000 年後半の日本の株価下落はきびしかった。なかでもハイテク株の急落はきつく、時代を先取りするつもりでIT 関連の株を多く組み込んだ成長株投信を買っていた人たちは、苦い思いで年末を迎えたのではないだろうか。こんな方にぜひ読んで貰いたい本がある。バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本だ。

「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。

当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。

さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。

扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。

まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。

二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。

蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。

(橋本尚幸)